其の百 いざ!「神武東征」の古戦場へ!!(続編)

その5 奈良・宇陀編


今回のアップは2018年6月19日です。

 

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2017年12月23日の天皇誕生日に訪れた

 

「神武東征」古戦場シリーズの続編となります。

 

先にそちらの記事から読まれますことをおすすめします。

  

 

 

筆者、エウカシに呼ばれる


前回の記事は4月22日に「神武東征」の古戦場である生駒山を訪れたことを書きました。実は帰宅後にこんなことがあったのです。

 

 

その日、夫は模型が趣味で六甲の会場に遊びに行っていました。そこで知り合った趣味仲間から

 

 

「宇陀においで」

 

 

と誘われたというのです。その前の週は京都・伏見の会場に行っていたのですが、そこでも

 

 

「宇陀においでよ」

 

 

と誘われていたそうです。どうやら奈良の宇陀に趣味の店があり、みんなそこで集うのだそうです。

 

 

生駒山から帰って来てそのことを聞かされた筆者は、固まってしまいました。 なぜなら

 

 

宇陀は「神武東征」のルート

 

 

だったからです。(;゚д゚)ウダ!?....

 

 

(まさか、エウカシに呼ばれてる??)

 

 

あえて書かせていただきますが、宇陀はかなり辺ぴなところです。たまたま夫の趣味の店が宇陀にあったという偶然。だから驚きは人一倍でした。(;゚д゚)ウダ....

 

 

前回訪れた生駒山中にあった「神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑」も、絶対に行くことはないと思っていたように、宇陀もまた、一度も訪れることはないだろうと思っていたのです。

 

 

神様は絶妙なタイミングですべてを整えられる。クルマを運転することができない筆者が確実にそこへ行けるように、夫の趣味を通じて連れて行ってもらえるように「用意」されたのだと思いました。

 

 

今回はそのことについて書きます。

 

神武東征ルート(筆者作成)
神武東征ルート(筆者作成)

 

神武天皇の物語は、ニギハヤヒが治めていた「日下(ひのもと)」の国の孔舎衙(くさか)坂においてナガスネヒコとの戦いにはじまり、ナガスネヒコの戦いに終わります。

 

神武天皇聖蹟盾津顕彰碑(筆者撮影)
神武天皇聖蹟盾津顕彰碑(筆者撮影)

 

上は孔舎衙坂でナガスネヒコに負けた神武が生駒山の海岸に戻って盾を立てて悔しさのあまり雄叫びを上げたという神話に基づいて建てられた皇紀2600年記念に建てられた顕彰碑です。

 

 

神武天皇は敗戦の理由が「太陽に向かって戦ったため」だとして、今度は太陽を背にするべく、紀伊半島をまわって名草・新宮の女酋長を殺して熊野から北上し、八咫烏に吉野へ道案内をしてもらい、宇陀へ攻め入ります。

 

奈良県周辺地図(筆者作成)
奈良県周辺地図(筆者作成)

 

今回は、宇陀の豪族エウカシが祀られているといわれる宇賀神社と、神武天皇が宇陀を攻め入った際に植えたといわれる八ツ房杉を目指しました。この日は2018年5月27日でした。

 

宇陀路大宇陀(筆者撮影)
宇陀路大宇陀(筆者撮影)

 

道の駅に立ち寄ると、せんとくんが出迎えてくれました。

 

道の駅 宇陀路大宇陀(筆者撮影)
道の駅 宇陀路大宇陀(筆者撮影)

 

まずは八ツ房杉に向かいました。

 

桜實神社より見渡す風景(筆者撮影)
桜實神社より見渡す風景(筆者撮影)

 

このあたりの道は災害でところどころ通行止めになっていて、迂回しながらやっとたどり着きました。

 

桜實神社(筆者撮影)
桜實神社(筆者撮影)

 

桜實(さくらみ)神社内に八ツ房杉はあります。

 

桜實神社(筆者撮影)
桜實神社(筆者撮影)

 

八ツ房杉(天然記念物)その昔、神武天皇が大和平定の際、兎田の高城に陣営を張られた時に植えられたものと伝えられる杉の巨木です。八ツ房杉とは、八幹からなる意味で大小八ツの幹が巨大な株状を成しています。

 

 

樹形は、極めて奇態、一つの株から伸びた八本の幹が互いに絡み合い、ある幹は途中で一本になり、再び分かれるといった極めてめずらしく目をひきます。

 

 

樹皮は、普通のスギと異なり、美しい赤色をしており、枝は大きく天をおおっています。昭和7年4月25日に国の天然記念物に指定されています。

 

桜實神社(筆者撮影)
桜實神社(筆者撮影)
八ツ房杉(筆者撮影)
八ツ房杉(筆者撮影)

 

八ツ房杉です。写真では伝わりにくいですが、一株の杉とは思えない奇妙な姿と巨大さに圧倒されます。

 

八ツ房杉(筆者撮影)
八ツ房杉(筆者撮影)

 

一株の杉から八つに幹が分かれていますが、それぞれが独立しているように見えます。とても一株から分かれたようには見えません。

 

八ツ房杉(筆者撮影)
八ツ房杉(筆者撮影)

 

別れた幹のそれぞれが荒々しい姿をしていて、ヤマタノオロチを想起させられます。

 

八ツ房杉(筆者撮影)
八ツ房杉(筆者撮影)

 

樹皮は赤くて苔むしています。神話の通り換算すれば、樹齢2678年(2018年)ということになります。

 

八ツ房杉(筆者撮影)
八ツ房杉(筆者撮影)

 

いずれにしても、この土地がとても古いことがわかります。

 

八ツ房杉(筆者撮影)
八ツ房杉(筆者撮影)

 

神社合祀というのは明治39年に行われた「一つの村に一つの神社にまとめる」というものでした。和歌山と三重は神社合祀がもっとも大規模に行われたところでした。

 

 

三重県では

 

現存神社942、

 

滅却神社5547、

 

 

和歌山県では

 

現存神社790、

 

滅却神社2923。

 

 

和歌山県出身の南方熊楠がこれに大反対をしました。

 

 

明治維新により日本の古来より守られてきた自然と信仰が根底からひっくり返され、表に出てきたのは利権と戦争と日本の精神と文化の破壊でした。その結果、人は神を忘れ自我意識がはびこってしまいどん底までひどい世の中になってしまいました。

 

桜實神社(筆者撮影)
桜實神社(筆者撮影)

 

この杉は同神社内に生えている一本杉です。このような巨大な杉がたくさん生えています。

 

八ツ房杉(筆者撮影)
八ツ房杉(筆者撮影)

 

神武天皇が植えたとされるこの杉が、この土地の想いを如実に表現していると思わざるを得ません。ヤマタノオロチの姿を思わせるこの八ツ房杉のメッセージは、傲慢な人間に対しての警告を発しているかのようです。この樹さんにお祈りしてから次なる目的地を目指しました。

 

兎田の高城(筆者撮影)
兎田の高城(筆者撮影)

 

八ツ房杉から少し離れたところで「神武ゆかりの地 我が国最古の城跡 兎田の高城」への案内を見つけました。

 

 

案内のとおりに進んでいくと、山道へと通じる道がありました。

 

兎田の高城(筆者撮影)
兎田の高城(筆者撮影)

 

神話では宇陀には兄弟の豪族がその地を守っていました。神武天皇がこの地にやってきたとき、兄のエウカシ(兄宇迦斯)は神武に従わず、弟のオトウカシ(弟宇迦斯)は帰順しました。

 

 

ウカシは兵を集めたのですがなかなか集まらなかったので、神武を歓迎することを装って兎田の高城(たかぎ)に罠をしかけました。なんとオトウカシはそのことを神武の側近に密告するのです。

 

兎田の高城(筆者撮影)
兎田の高城(筆者撮影)

 

ウカシの仕掛けた罠を知った神武の側近は、エウカシを呼びつけて罠を仕掛けたところへ先に自分から入るよう促しました。するとエウカシは自分の仕掛けた罠にかかって押しつぶされて死んでしまいました。 

 

 

エウカシの死体は引きずり出されてバラバラに切り刻まれ、その血はくるぶしまでつかる程だったので、この地は「兎田の血原」と呼ばれるようになりました。(日本書紀)

 

兎田の高城(筆者撮影)
兎田の高城(筆者撮影)

 

エウカシを倒した際の神武天皇の和歌が『古事記』に記されています。

 

 

宇陀うだの 高城たかきに 鴫罠しぎわな張る

 

 我が待つや 鴫はさやらず 

 

いすくはし 鯨さやる 

 

前妻こなみが 菜乞はさば 

 

たちそばの 実の無けくを こきしひゑね 

 

後妻うはなりが 菜乞はさば 

 

いちさかき 実のおほけくを こきだひゑね 

 

ええ しやこしや こはいのごふぞ 

 

ああ しやこしや こはあざわらふぞ

 

 

【通釈】

 

宇陀の高台に、鴫を獲ろうと罠を張る。

 

俺が待ってると、鴫は掛からず、りっぱな鯨が掛かった。

 

さあ、皆に御馳走だ。

 

古女房がおかずに欲しがったら、

 

ソバの木の実のように中身の無いのを、たっぷり切ってやれ。

 

新しい女房がおかずに欲しがったら、

 

ヒサカキの実のように大きいのを、たっぷり切ってやれ。

 

ええい、ばかものめざまあみろ、これはののしっているのだぞ。

 

あっはっは、ばかものめざまあみろ、これは嘲笑っているのだぞ。

 

 

  神武天皇千人万首より

 

 

 

注:兄宇迦斯(えうかし)を倒したあと、弟宇迦斯(おとうかし)によって献上された御馳走を兵士らに賜わった時に詠んだ歌。 

 

兎田の高城(筆者撮影)
兎田の高城(筆者撮影)

 

ウカシを倒した後、神武天皇は先住民の土蜘蛛を宴会に招き、土蜘蛛たちが食事をしている背後から惨殺しました。神武天皇はこうして再び憎きナガスネヒコと戦うために生駒山を目指しました。 

 

兎田の高城(筆者撮影)
兎田の高城(筆者撮影)

 

エウカシは、神武東征の神話の中で最も屈辱的で哀れな人物です。兵を集めようとしても集まらず、弟に裏切られ、自分が作った罠に自らかかって押しつぶされ、亡骸を引きずり出されてバラバラにされてしまう。エウカシはかませ犬という役どころを担っているとても残念なキャラとして書かれています。

 

兎田の高城(筆者撮影)
兎田の高城(筆者撮影)

 

宇陀の豪族の長であるにもかかわらず、一度も活躍する場面もなく悲惨な結末に終始するエウカシの無念さを思うと、むしろ我が国最大の逆賊とされているナガスネヒコが輝いて見えます。

 

兎田の高城(筆者撮影)
兎田の高城(筆者撮影)

 

この山道は頂上に至るまでまだまだ歩かなければならないようでした。今回はこのあたりでご勘弁いただくことにして下山しました。

 

宇賀志(筆者撮影)
宇賀志(筆者撮影)

 

地元の方に道を教えていただいて、次の目的地に着きました。

 

宇賀神社(筆者撮影)
宇賀神社(筆者撮影)

 

エウカシの亡骸を引きずり出されてバラバラにされた際に流れた血がくるぶしまで浸かったという神話の舞台としてあえてこの標識が立てられたのは、この土地に住まう人々がエウカシを弔い大切に祀ってきた証なのだろうと思いました。その証拠に、エウカシを裏切ったオトウカシはどこにも祀られていません。

 

宇賀神社(筆者撮影)
宇賀神社(筆者撮影)

 

宇賀というのは、宇賀神のことなのでしょう。宇賀神とは宇迦之御魂神(うかのみたま)であり、その正体は豊受大神だと思いました。ウカ=ウケ。豊受大神は伊勢神宮外宮の御祭神であり、元伊勢籠神社の御祭神でもあります。つまり瀬織津姫さまのことです。宇賀神社にはエウカシと瀬織津姫さまが祀られているのではないかと思いました。これはあくまでも筆者の直観です。

 

宇賀神社(筆者撮影)
宇賀神社(筆者撮影)

 

エウカシは宇陀の豪族の長として、侵略者からこの土地を守ろうと必死に抗ったのです。それは至極もっともなことでした。神武天皇が大軍を引き連れて従わぬ者には容赦なく惨殺して進軍せず、和合の精神で対話していたなら、エウカシは話し合いに応じただろうし死なずに済んだはずなのです。惨めで屈辱的な人物として神話に名を残すこともなかったでしょう。

 

 

この神社境内には宇賀志集会所があり、とても綺麗に掃除されていました。地元の方はエウカシと瀬織津姫さまを大切にお祀りし、ここを拠点としておられるようです。

 

宇賀神社(筆者撮影)
宇賀神社(筆者撮影)

 

エウカシはナガスネヒコと同様に日本民族の血統を受け継ぐ始祖的存在であるにもかかわらず、悪役を1300年もの間担ってきたのです。

 

 

わたしは日本人が真に目覚めるためにはスサノオとナガスネヒコの復権が必要だと気付かされたとき、心の片隅にエウカシの名誉も取り戻さなければならないと思っていました。けれど宇陀へ行くことはないと思い込んでいました。

 

 

宇賀神社の神様には、何度もサインを送ってくださっていたのに気づかなかったことへの深いお詫びと感謝をお伝えし、自分に与えられた役目を果たしていくことの決心とそのサポートをお願いしました。

 

宇賀神社(筆者撮影)
宇賀神社(筆者撮影)

 

不思議なことが起きました。この日は風がなく穏やかに晴れていたのですが、筆者が拝殿の前に立つとものすごい勢いで風が吹き荒れ、お祈りしている間ずっとその風が止むことなく吹いていたのです。筆者が神様にお祈りを済ませた直後、その風はピタリと止んだのです。家族も同じ場面に立ち会っていたので「神様から歓迎されているサインだよ」と言うとあっけにとられていました。( ゚д゚)ポカーン

 

宇賀神社(筆者撮影)
宇賀神社(筆者撮影)

 

エウカシは、ナガスネヒコと同じく「ひのもとの国」の守護神に仕えた縄文人だったのです。宇陀から吉野にかけての一帯は水の神様が祀られた神社が多数あります。つまり、この土地は瀬織津姫が守護していた。

 

 

ナガスネヒコが天照大神の和魂(ニギハヤヒ)の眷属ならば、エウカシは天照大神の荒魂(瀬織津姫)の眷属すなわち、神に仕える龍神としてこの土地を守護していたのかもしれない。龍が巻き起こしたかのような突風が起きた後に撮った写真(上)を見てそう思いました。

 

宇賀神社(筆者撮影)
宇賀神社(筆者撮影)

 

現在のこのあたりが縄文時代は海だったということは、やはり瀬織津姫さまが守ってこられた土地なのです。瀬織津姫は記紀には登場しませんが大祓歌の祝詞に「速川の瀬に坐す 瀬織津姫と言う神 大海原に 持ち出でなむ」とあるように、祓い清めの水の神様なのです。

 

宇賀神社(筆者撮影)
宇賀神社(筆者撮影)

 

手前の石が化石が入っているという「子もうけ石」のようです。夫婦でなでると子が授かるとのことです。いのちを生み出す神は縄文女神の瀬織津姫です。瀬織津姫は「みくまりの神」の別名があります。「みくまり=みこもり=身籠り」つまり、瀬織津姫は子授けの女神さまなのです。

 

宇賀神社(筆者撮影)
宇賀神社(筆者撮影)

 

龍神といえば、瀬織津姫。やはりここには瀬織津姫さまがいらっしゃいました。

 

宇賀神社(筆者撮影)
宇賀神社(筆者撮影)

 

この奥には石が祀られていました。この石さんにも化石が入っていました。

 

宇賀神社(筆者撮影)
宇賀神社(筆者撮影)

 

この石碑の不思議な模様は化石だったのですね。宇賀神社の神様、お参りさせていただきましてまことにありがとうございました。

 

 

 

吉野は瀬織津姫の聖地


宇陀路大宇陀(筆者撮影)
宇陀路大宇陀(筆者撮影)

 

宇陀をさらに南下すれば奈良県吉野郡です。大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)は、吉野熊野を結ぶ大峯山を縦走する、修験道の修行の道。1000-1900m級の険しい峰々を踏破する「奥駈」という峰入修行を行なう約80kmに渡る古道を指します。

 

 

吉野は古くから修行の聖地であると同時に日本有数の桜の名所です。まずは吉野の雰囲気を動画でごらんになってみてください。リュウさんが棲んでいそうです。(≧▽≦)/

 

 

瀬織津姫は持統天皇が男神天照大神ニギハヤヒを女神のオオヒルメに神の系図の改ざんをしたことから封印されました。瀬織津姫は元伊勢の天照大神であるニギハヤヒとその妻として祀られていた神様です。

 

 

神様の存在を消すことはできませんから、名前を書き換えたのです。それが「みつはのめの神」「みくまりの神」「弁財天」「磐長姫」などです。そして瀧(滝)は瀬織津姫の御神体です。

 

 

下は吉野郡に瀬織津姫の祀られている神社です。名前を書き変えられてはいますが瀬織津姫がとても多く祀られていることがわかります。ざっと調べただけですが、本当はもっとたくさんあると思います。この地一帯は瀧だらけですから、瀬織津姫の聖地なのです。一方、吉野郡だけで9か所のダムが存在しています。

 

奈良県吉野郡周辺地図(筆者作成)
奈良県吉野郡周辺地図(筆者作成)

 

吉野の山のしずくが滴って水が集まり瀧になり、川になって海へと注いでゆく。自然が守られた山だからこそきれいな水が湧くのです。水はいのちを生み出す源です。瀬織津姫はいのちを生み出す縄文の女神でありますから、自然が破壊されてしまうと神様が存在できなくなってしまいます。環境破壊の張本人の現代人こそ瀬織津姫を封印し、いのちを蔑ろにしてしまっているのです。

 

ストリートファイターⅢ3rdエンディングより
ストリートファイターⅢ3rdエンディングより

 

上の動画は吉野郡天川村のみたらい渓谷です。たいへんきれいな川です。近くには洞川(どろがわ)温泉があります。ここは筆者が小5の頃、林間学校ではじめて訪れたところでした。なのに「ここ知ってる・・・」とあまりのなつかしさと既視感に立ち尽くしてしまったことのある場所なのでした。ここもリュウさんが棲んでいそうです。(≧▽≦)/ 最後の短編小説『修羅の世界の先駆者の舞台はここをイメージして書きました。

 

 

「天川TV動画コンテスト」にてグランプリ受賞作品の動画を見つけました。吉野の山にはありのままの原風景が残されている様子がよくわかります。とても美しい風景写真が多数アップされています。ここもリュウさんが棲んでいそうな感が満載です。(≧▽≦)/

 

 

短編小説『上海より愛をこめて』は熊野から吉野を想定して書いたのですが、なぜか副題を「天女降臨」と銘打ったのです。この動画とシンクロしていたなんて、夢にも思いませんでした。(;゚д゚)シンクロ....

 

 

これまた、リュウさんが修行してそうな滝が満載ですよ! このような美しい大自然が吉野にはたくさんあります。下は初代ストⅡエンディングです。滝と修行はリュウさんの原点でしたね。

 

ストリートファイターⅡエンディング
ストリートファイターⅡエンディング

吉野は修験道の聖地


大峰奥駆道は修験道(しゅげんどう)の聖地ですが、もとは生駒山が修験の発祥の地なのだそうです。というのは、修験道の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)さんが生駒山で修行したからです。生駒山はニギハヤヒ山という別名があります。

 

 

日本古来の自然崇拝、山岳信仰の思想と、外来のキリスト教・ユダヤ教・ヒンズー教・仏教・儒教・道教などが融合して出来たのが、日本独自の「修験道」です。他国の宗教さえも自国に取り込んでしまうところが、日本らしいですね。

 

 

修験道は山を聖域と見、その聖域の奥深くまで分け入って修行することによって、神秘的な力を得、その力によって自他の救済を目指そうとする山岳信仰です。その道は教義を持たず信仰を日常生活下で実践するというものです。

 

 

役行者さんは生駒山で修行した後、修験道の本拠として吉野の金峯山を開きました。その後に空海さんが生駒山で修行して高野山を開いたのです。

 

高野山・金剛峯寺(筆者撮影)
高野山・金剛峯寺(筆者撮影)

 

修験道の行者である山伏たちが信仰の証として山桜を植え始めたことから吉野は桜の名所となりました。吉野は自然が美しいだけではありません。吉野は戦が繰り返された歴史も併せ持つのです。以下は吉野町のホームページより引用させていただきました。

 

 

 

 

花の吉野は、また豊かな歴史や伝承で彩られています。吉野という地名は、早くも記紀の神武天皇御東征のなかにでてきます。

 

 

宮滝などでは縄文や弥生時代の土器が発掘されており、また、応神天皇以来、幾度と無く吉野の宮への行幸の記事がでてくることから、吉野は太古の昔から文化が発達し、世に知られた土地だったのでしょう。

 

 

古代においては何と言っても、大海人皇子(後の天武天皇)が吉野に潜行され壬申の乱で兵を挙げられたことは有名です。

 

 

時代が下ると源義経が兄頼朝の追捕を逃れて、愛妾静や弁慶などを伴って吉野に入りました。しばしの安らぎも束の間、吉野から逃れる際に別れざるを得なかった義経・静の悲恋の物語が残っています。

 

 

さらに時代が下ると大塔宮護良親王が鎌倉幕府倒幕のために、河内の楠木正成と呼応して吉野を城塞化され、兵を挙げられます。

 

 

また、建武の新政の夢破れられた後醍醐天皇が、吉野に朝廷を開かれたことは太平記に詳しく記されています。南朝四帝が吉野の地を頼みとされ、京都奪回のためにこの地から全国に号令を発せられたのです。

 

 

この願いは遂に実現しませんでしたが、忠僧宗信法印をはじめ当時の吉野の人々は、我が身を顧みず終始、南朝のために尽くしたのです。

 

 

歌書よりも軍書に悲し吉野山 / 各務支考

 

 

このように吉野は中央で居所を失った人々、所謂アウトサイダー達が再起を図る場所といっても良いでしょう。その都度、吉野は戦場と化し、多くの命が失われ、悲しい別れが幾度と無く繰り返されたのです。

 

 

後に、太閤秀吉が5000人の家来を引き連れて大花見を行ったという記録もありますが、吉野は、そのような晴れがましい歴史より、哀しい歴史に思いを馳せたくなるような土地柄なのです。

 

 

吉野町ホームページより引用

 

 

 

熊野から吉野は八咫烏発祥の地


熊野本宮大社(筆者撮影)
熊野本宮大社(筆者撮影)

 

神武天皇が熊野から吉野までの遠く険しく山深い道を八咫烏の先導なしに突破することは不可能でした。

 

 

天皇を守護する者、つまり、日本の国体を守る役目を担う人々がこの地で修行し、天皇を守るためにいのちを捧げ、現在でも日本に存在しています。

 

 

彼らは八咫烏と呼ばれており、生まれたときから戸籍がなく名字がありません。あらゆる法律や社会秩序を越えて天皇を守るために秘密裏に活動しています。八咫烏にも表と裏の役目があり、表は経営者として、裏は暗殺者としての役目を生涯まっとうするのです。

 

 

表(経営者)が裏(暗殺者)を養い、裏は国と天皇を守るために殉ずるのです。死んでも戸籍がないので野垂れ死にです。すべては表裏一体。天皇にも表と裏があります。表の天皇、裏の天皇ともに八咫烏が守っています。

 

 

「日本」は「二本」であるように、 表と裏の世界があって、二重構造になっています。系列から言ったら南朝が多いのですが、南朝の繋がりの元を質すと、秦一族にたどり着きます。さらに秦一族の元をたどると、今度は古代ユダヤに行き着いて、さらにそのもとは古代天皇(スメラミコト)になります。

 

 

古代の日本は謎に包まれていましたが、ようやく裏の情報を表に出すことが許されるときが来たのです。筆者は自分の意思を超えて直観と体験に基づく一連の記事を書いてきましたが、まさにその一言に尽きると思います。

 

 

天皇制がはじまったと同時に存在した八咫烏も、天皇制が終わると同時に役目を終えることになるでしょう。

その時代はまもなくです。その先は二元性を超えた新しい時代のはじまりです。「にほん(二本)」が「いっぽん(一本)」になって「にっぽん(日本)」が「ひのもと」=【一(ひ)の本(もと)/日の本(もと)】と名乗りを上げることでしょう。

 

 

やっと、やっと待ちに待ったこの時代の幕開けが到来したのです。わたしたちは長かった暗闇の時代を乗り越え、歓喜の時代が来るのを長い間待ちわびてきたのです。目覚めた日本人たちからそのよろこびを分かち合い、やがて世界へと広がっていくのです。それが新たなる日本文明なのです。

 

 

 

女人結界が解除されし時、新たなる時代がはじまる


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B0%E5%B1%B1
大峰山女人結界門(ウィキペディアより)

 

大峰奥駆道には現在でも女人禁制の結界門があります。女性には肉体的に厳しすぎるからなのか、女性が穢れているからなのか理由は諸説あるようですが、女性はここから先を進むことができません。

 

 

 

遡れば神話の時代、イザナミが死んで黄泉の国に行ってしまい、イザナギと別れてしまったことがそもそもの不調和のはじまりなのです。イザナギがイザナミに会いに行った際、イザナミは魑魅魍魎の姿になっていた。それが女性が穢れていると考えられるようになったことから女性性を封じることになったのです。

 

 

弥生文明は女性性を封じた文明です。縄文の女神・瀬織津姫を封じなければ現在の文明は実現できなかったために、瀬織津姫は隠されたのです。瀬織津姫の聖地といえるこの土地に女人結界が設けられたのは、もしかしたら瀬織津姫の封印でもあったのかもしれません。

 

 

注:先ほど筆者に入ってきた情報では、女人禁制になった本当の理由は「女性の方が早く伸びるから」なのだそうです。(^^;)

 

 

2018年は相撲の土俵に女性が上がるという事象が起きました。土俵上で倒れた男性のために女性が急きょ救命措置のために土俵に上がったのですが、救命行為はいのちをもっとも大切にする女性性の特性でもあります。

 

 

特筆すべきはご神事である大相撲舞鶴巡業中の出来事であり、倒れた男性が舞鶴市長だったことです。舞鶴は東経135度+1.4度エリア内にあります。新たな日本文明の発祥エリアでこの現象が起きたということは、女人禁制もまもなく解除される事象が起きることでしょう。そしてそのときこそ瀬織津姫が新たな日本文明を開始される時なのかもしれません。

 

大相撲舞鶴巡業開催場所(筆者作成) 
大相撲舞鶴巡業開催場所(筆者作成) 

蘇りの聖地、熊野本宮へ


 

上の画像をクリックすると熊野三山について詳細が書かれた本を読むことができます。

 

熊野本宮大社(筆者撮影)
熊野本宮大社(筆者撮影)

 

現在の熊野古道は世界遺産になったために道路が整えられていますが、いにしえの時代は熊野詣そのものが難行苦行でした。平安時代から神仏習合し、男女貴賤を問わずに受け入れてきた熊野の聖地は、天皇をはじめとするあらゆる人々が悟りと蘇りを求めてこの地をたずねてまいりました。

 

 

霊験あらたかなこの紀伊半島は、神話を彷彿とする幽玄・わび・さびの世界です。この地を目指すということは、目に見える物質的な世界を超えて、目に見えない世界に足を踏み入れることになるのです。

 

熊野那智大社(筆者撮影)
熊野那智大社(筆者撮影)

 

「蘇りの聖地」ということは、一度自我が死んで、神とともに復活するということを意味しているのかもしれません。自我が死ななければ縄文の神とつながることはできないからです。いにしえより日本人が求めてきた神は親神様である縄文の神だったということなのでしょう。

 


長編小説は、熊野本宮大社を舞台にして戦いの世界を書きました。ここへ参拝に来たときに、合気道開祖・植芝盛平翁と霊線が繋がったことから、色々な体験をさせていただきました。「事実は小説より奇なり」を実体験しました。


 

 

 「紀伊の国(きのくに)」は「木の国」です。その語源はスサノオに由来があるのです。スサノオはシュメールのスサの王です。シュメールは縄文をルーツとした中東で興った文明でした。

 

 

シュメール文明は大変高度な技術をもっていましたが、文明というものはその性質上、自然破壊が伴います。スサノオはこの経験から植樹事業を発展しました。つまり、国土の開発に伴い木を植えることを指導したのです。

 

 

スサノオが祀られている熊野が「紀伊の国(きのくに)」と呼ばれるようになったのは、その理由が隠されていたのです。

 

日本の原発と紀伊半島(筆者加工)
日本の原発と紀伊半島(筆者加工)

 

縄文の神々が鎮座ましますこの地には、弥生文明をはねのける御神威があったおかげで、紀伊半島には原発がありません。

 

 

和歌山県東牟婁(むろ)郡在住の知人に聞くところによると、かつて紀伊半島にも原発の話が持ち込まれたそうです。けれども古くから住み着いてきた住人たちは、紀伊半島に地震と津波による大災害が必ず起きることを声にあげ、原発設置を断固として受け入れませんでした。そのために、この土地は産業の発展をあきらめざるを得なかったということを話していました。原発は弥生文明最大の負の遺産と言えるのかもしれません。

 

 

 

原日本の信仰の聖地を侵略した「神武東征」とは?


筆者が「神武東征」をはじめて読んでもっとも違和感があったのが、神武天皇が紀伊半島まわりで進軍したという点でした。神話の時代は生駒山は島だったので、わざわざ紀伊半島をまわらなくても、京都方面から海で進むことができたはずなのです。

 

神武東征ルート(筆者作成)
神武東征ルート(筆者作成)

 

神武天皇が遠回りしてまで紀伊半島をまわってこられた理由は、出雲系縄文神の住まう原日本の信仰の聖地を征服したかったからなのだと思います。

 

 

なぜ神武天皇は名草と新宮で女酋長を殺してバラバラにし、宇陀でエウカシを罠で死なせてバラバラにしたのでしょう。肉体が本質と考えていた弥生の神は、肉体をバラバラにしてさえおけば縄文人が復活することはないと考えていたからなのかもしれません。それ以上に縄文人を恐れ、嫉妬し、復讐の意図があったからかもしれません。

 

 

だから紀伊半島に住まう縄文の神々の聖地に住まう縄文人を殺してしまえばその存在は消えてなくなり、その土地を支配下に置くことができると考えたのでしょう。

 

 

けれど縄文人は肉体は魂の器に過ぎず、不可視のいのちこそ実体であることを知っていました。そしてつねに神と一体だったので、恐れも嫉妬もありませんでした。神武天皇がわざわざ遠回りしてまで生駒山を再び攻め入ったのは、出雲系縄文の神々の本拠地に住まう神と人を引き裂くためだったとしたら? 

 

 

ナガスネヒコがかつてないほどに強かったのは、神と人が一体だったからです。わたしたちは、長きにわたり神と人が一体だった頃の記憶を失い、迷いの人生を繰り返してきました。けれど、記憶を取り戻すことができれば、外に答えを探し求めずとも今自分が何をすべきなのかがわかるのです。

 

 

「神武東征」は、記憶を取り戻すためのコードが組み込まれていたのです。表面だけでは解読できないように仕掛けてあったのだと今ならわかります。

 

 

わたしたちは、教育の名の下に表面しか読み取れないようにプログラムされてしまっていますから「原因不明」がまかり通る世の中にしてしまいました。それが戦後教育プログラムです。このプログラム通りインストールしなければエリートになれない仕組みだったのです。

 

 

表の座にいる方々や権威ある学者さん方はまさにそのプログラムを忠実にインストールされていますから、物事の本質を見抜く目が盲点になってしまっています。

 

 

神話の解読はとても奥が深いため、何が正解なのかはわかりません。

 

 

ただ、自我意識を統合意識に変換すれば物事の本質を見抜く目が養われてきます。神様は「身魂磨きを急いでくれ」と言っています。もう古いプログラムはこれからの地球には通用しないのです。

 

 

縄文と弥生はことごとく価値観が反対であることを念頭において考察すれば、答えがわかるような気がします。

 

 

今までは誰もが公の場で「神武東征」の血なまぐさい描写の本質について語ることは控えてきた感があります。けれど、

 

 

「神武東征」は神武天皇(渡来系)による縄文人(原日本人)の猟奇的大量殺戮(民族浄化)の武勇伝であるということと、もともと「ひのもとの国」にいたニギハヤヒこそ神武の先代にあたる天皇だったということは、これまでの最大のタブーだったのだろうと筆者は思います。

 

 

そのことをなぜ筆者が自分の意思を超えて書くことになったのか不思議でなりません。

 

 

もしかしたら、1992年7月に初代ストⅡの説明書のリュウさんをはじめて見たときに雷が落ちたかのような衝撃を受けたことに理由が隠されているのかもしれません。リュウさんについての暗号解読はここに書きました。

 

初代ストⅡ説明書
初代ストⅡ説明書

 

下はストリートファイターⅤのリュウさんのプロフィールです。ストⅡ時代は「空手」をベースとした格闘術だったのが、ストⅣから「暗殺拳」をルーツとした格闘術に変わっています。ここに秘密が隠されているように思います。

 

https://game.capcom.com/cfn/sfv/column/130242
「シャドルー活動報告キャラ図鑑」より

 

リュウさんの求めていた答え・・・つまり「日本の魂を一手に担うキャラとして生み出され、新たなる王道を提示する」使命を課せられたリュウさんにこめられていた暗号を解読すれば、日本に隠されてきた秘密が解除され、表に出されることになる。

 

 

そのときこそ、日本の国体と日本人の真の復活が果たされる時なのかもしれません。本当のことは神様だけが知っておられるのだと思います。

 

 

そしてこのことはあくまでも筆者の主観であり、公式の見解ではありませんことをお断りしておきます。

 

 

このページを書いている間に、大きな地震が発生しました。震源地は大阪北部でした。筆者は北大阪在住です。阪神淡路大震災以上の揺れでしたが、幸い被害はありませんでした。そして地震の翌日には「のような雨」の予報で大雨警報が発令され、避難指示が出される地域もありました。

 

http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%b0%b4%e6%9b%9c%e3%81%af%e6%bb%9d%e3%81%ae%e3%82%88%e3%81%86%e3%81%aa%e9%9b%a8%e3%81%ae%e6%81%90%e3%82%8c-%e9%96%a2%e6%9d%b1%e3%82%82%e5%9c%9f%e7%a0%82%e9%99%8d%e3%82%8a/ar-AAyQLCI?ocid=LENDHP#page=2
© tenki.jp 提供 水曜は滝のような雨の恐れ 関東も土砂降り

 

被災された方には心よりお見舞い申し上げます。二次災害の危険性が高まっています。皆さまも、防災にはくれぐれも注意を払われ、いのちをまもってください。

 

 

さて、宇陀へのお参りの次に目指すところがまだあります。続きは次回にて。